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政尾藤吉の生涯
平成25年12月28日
愛媛県大洲市出身の政尾藤吉(まさおとうきち、1870〜1921)は、明治期にアメリカへ私費留学し、苦学の末、弁護士資格、民事法博士号を取得した。帰国後、日本の外務省からシャム国(現、タイ王国)に派遣され、法律分野のお雇い外国人として、シャム国の近代法典(刑法、民商法など)の整備や司法制度改革に大きく貢献した。「シャムのボアソナード(※1)」と呼ばれた政尾は、シャム国王ラーマ5世(※2)・6世から絶大な信頼を得た。帰国後の政尾は、これまでの長い海外経験を生かして衆議院議員に当選、外交で手腕を発揮する。晩年はシャム国特命全権公使(現、在タイ日本国大使)に任命され、再びバンコクに赴任するがまもなく客死した。
筆者は、政尾藤吉の出身地である愛媛県に住んでいる。大洲市も遠くはないが、政尾のことは聞いたこともなかった。今回タイに赴任する事前研究中に偶然政尾を知った。政尾は明治期にアメリカに私費留学しているが、そのような素封家が大洲にいたのだろうか。大洲のどこに住んでいたのだろうか。シャム国王ラーマ5世といえば明治天皇のように近代国家に導いた名君として現在でもたいへん尊敬されている。その王から絶大な信頼を得たとはあるが、具体的にはいかほどの信頼だったのか、政尾と同じ地元民ならではの興味と関心があったので、図書館で資料を探すことにした。
政尾は明治3年(1870)年11月17日、大洲藩大洲城下(※3)で、父政尾勝太郎と母かめとの間に、五人兄弟の長男として生まれた。政尾家は代々「政屋(まさや)」という屋号で、大洲藩の食糧を納める御用商人として栄えた。大洲市の中一商店街に、政尾が生まれ育った家が現存している。大洲市の寿永寺には、政尾家先祖代々の墓がある。明治4年の廃藩置県で大洲藩が廃止されると、政屋は御用商売ができなくなり、次第に家業が傾いていった。政尾が8歳頃、父は長女ハナと長男政尾をつれて、親類がいる郡中(現、愛媛県伊予市郡中)に移住し、山嵜小学校の教員に転職した。政尾も同校に編入した。政尾16歳の頃に両親が離婚。父は教員を辞て、明治19年、郡中の郵便局に勤務した。月給が低く、生活は苦しかったといわれているが、のちに大正4(1915)年1月12日、タイから帰国した藤吉は郡中尋常高等小学校で講演をし「私は一生の最も面白い、なつかしい、腕白時代を郡中で過ごした」(海南新聞)と話している。
明治21年、政尾17歳の頃、再び大洲に戻り、喜多郡立喜多学校(現、大洲高校)に入学した。入学後まもなく、父が亡くなった。政尾の喜多学校での在学期間はわずか1年だったが、これからは英語が必要な時代になると自覚し、英語に非常に興味・関心を持つようになったといわれている。政尾の人生を決定づけた人物が二人現れた。一人は「青山彦太郎」で、キリスト教の伝道に携わりながら、自身の留学費用を稼ぐために喜多学校で英語教師を務め、英語の夜学校を開いている。もう一人は大洲で書店「雙松堂中野書林」を営む資産家でクリスチャンの「中野ミツ」だった。青山彦太郎が中野ミツの家の2階に下宿していたことから、政尾は毎日のように中野宅に通い、青山のもとで英語を熱心に学んだ。父なき後の遺産や大学進学への問題を抱えた政尾にとって、二人は良き相談相手であった。こうした関係から、政尾はその頃、大洲教会(※4)で洗礼を受けている。
父の死後、親戚は政屋を再興することを望み、政尾が故郷を出ることに反対であった。母は以前から政尾がクリスチャンになることにも反対であった。恩師青山彦太郎が喜多学校を退職したこともあって、政尾は勉学のため故郷の大洲を旅立つことをついに決心した。明治21年8月末の夜明け、政尾は家を抜け出して、長浜から船に乗り大阪へ行き、ミッションスクールで学んだ後、上京する。同年11月には慶応義塾(現、慶応大学)普通科に入学、翌年3月には東京専門学校(現、早稲田大学)英語普通科に入学し、7月に同校を卒業した。その後、広島の海軍兵学校でアメリカ人に日本語を教えたり、ミッションスクールで英語教師の職についているが、明治23年9月には関西学院大学神学部に入学している。青山彦太郎の影響から、アメリカに留学することに夢を膨らませていた政尾は、関西大学に入学した翌年、大洲に一時帰郷し、渡米について母と相談し、その費用捻出のために生まれ育った生家を売却した。当時、アメリカに留学するには多額の資金が必要とされたが、政尾の生活費などは、中野ミツが支援した。中野ミツは大洲教会の中心人物になっていた。中野ミツはその後も長年支援し続けた。政尾はついに明治24年渡米し念願のバンダビルト大学神学部(テネシー州)に入学し、2年間学び卒業した。バンダビルト大学は、関西学院の創立に貢献したJ・W・ランバスの息子の母校であり、関西学院大学からの留学生が多かった。この留学中に母かめが亡くなったが、政尾は帰国しなかった。
当初、政尾は牧師になることを目指していたようであるが、次第に法学に興味を抱くようになり、明治26年ウェストバージニア州立大学ロースクールに入学した。政尾はここで2年間勉強し、卒業と同時に州弁護士の資格を取得した。明治28年にはエール大学(コネティカット州)に入学し、翌年法学修士取得、アメリカ連邦政府弁護士資格を得た。月給250ドルで、同校助手に採用され、「The New Civil of Japan」という論文を書いて民事法博士号を取得した。すでに両親を亡くしていた政尾は、アメリカで弁護士として活躍する予定であったが、折しも日本人排斥運動がおこり、アメリカを去り、日本に帰国した。
明治30年、シャム国の法律制度に関する顧問職として政尾に白羽の矢が当たり、シャム国に赴任した。明治41年,政尾が手がけた刑法典が成立した。これはシャム国での最初の近代的立法であった。この刑法は昭和31年に改正されるまで存続し、現行法でも政尾の刑法が基本になっている。その後、婚姻法や会社法も手掛け、シャム国近代法典の整備に大きく貢献した。明治34年、中央控訴院(高等裁判所)、明治38年、チカー裁判所(最高裁)の裁判官も務めている。これの功績に対して、明治38年、白象第三等勲章、明治41年、王冠二等勲章、明治44年、ピヤー爵が授与され、明治45年ピヤー・マヒダラ(侯爵)となり、シャム国の貴族に列せられた。さらに大正2年、政尾がシャム国を離れるに際して、国王ラーマ6世は王冠大綬章ならびに皇族勲章第二等(准皇族)を授けて、その功績を称えた。私生活では、日本人女性と結婚し二男二女を授かっている。
大正4年、衆議院議員に初当選し、その後、連続二期目の当選も果たした。この議員時代に政尾は、衆議院議員からなる海外視察団の団長としてアメリカ、台湾、広東、香港、フィリピン、ボルネオ、インドネシア、シンガポール、シャムを訪問している。
大正9年、特命全権公使(現、大使)としてシャム国に駐在したが、まもなく脳溢血で急死した。享年52歳。政尾の葬儀はシャムの皇族や各国公使が参列し、火葬の点火を国王ラーマ6世自らが行った。斎場は「黄金の丘」として知られるワット・サケット寺院であった。
※1(ボアソナード)
フランスの法学者(1825〜1910)。明治6年(1873)日本政府の招きで来日し、法学教育・法典編纂に当たり、刑法・民法を起草。同38年に帰国。著「日本民法草案」。、「日本近代法の父」と呼ばれている。法政大学では、学祖の一人になり、キャンパス内にはボアソナードタワーという超高層ビル校舎もある。
※2(ラーマ5世) 1853〜1910
即位するとすぐに欧米に視察旅行をしてタイの立ち後れを実感し、チャクリー改革と呼ばれる数々の改革を行った。タイ三大王のうちの一人で今でも国民から人気が高く、肖像画が首飾りやポスターになったり、像が仏壇に置かれたりしている。1999年にはアメリカの『タイム』誌で、「今世紀もっとも影響力のあったアジアの20人」の1人にタイ人から唯一選ばれた。
愛知県名古屋市千種区に覚王山日泰寺 (かくおうざん にったいじ)という仏教寺院がある。この寺は日本唯一の超宗派の寺院である。タイ王国から寄贈された仏舎利(釈迦の遺骨)を安置するために、創建された。「覚王」とは、釈迦の別名。また「日泰」とは、日本とタイ王国を表している。境内には仏舎利を日本に寄贈したラーマ5世の像もあり、在日タイ大使は誕生日に参拝するのが習わしになっている。また在日タイ人もしばしば参拝に訪れるという。
※3(大洲藩大洲城下)
政尾は明治3年に出生しているが、廃藩置県が明治4年なので、政尾出生時の生誕地は大洲藩だった。現在の大洲市大洲(中一商店街)である。
※4(大洲教会)
日本基督教団の教会。日本基督教団は日本国内のプロテスタント33教派が「合同」して成立した合同教会であり、公会主義を継承する唯一の団体である。政尾は、明治23年、神戸メソジスト教会へ転入している。メソジスト(Methodist)とは、18世紀、英国でジョン・ウェスレーによって興されたキリスト教の信仰覚醒運動の中核をなす主張であるメソジズム(Methodism)に生きた人々、および、その運動から発展したプロテスタント教会・教派に属する人々を指す。特徴としては、日課を区切った規則正しい生活方法(メソッド)を推奨した。メソジストという名称は「メソッド」を重んじることから「几帳面屋」(メソジスト)とあだ名されたことに始まった。規則正しい生活が実践できているかどうか、互いに報告し合う少人数の組会、また、信仰のレベル別のバンド・ミーティングを重視した。このため軍隊や学校と相性がよく、ミッションスクールや病院の建設、貧民救済などの社会福祉にも熱心である。
参考文献:政尾藤吉の生涯―タイ近代整備の功労者の実像―
参考ウェブサイト:多数
琥珀ブログ 平成23年3月20日 初製作

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