Produced & Photographed by Matsutora
ルブリン繁華街
平成27年2月20日
LUBLIN DOWNTOWN
Feb.20.2015
ルブリンの銀座通りである「クラクフ郊外通り」
事実上のルブリン中央駅
駅前の看板
タトラビールだった。命名はタトラ山脈からとっている。
タトラ山脈は、ポーランド南部からスロバキア北部に広がる山脈。
ポーランド屈指の景勝地。
ルブリン駅
この街にはトラム(路面電車)はないが、トロリーバスがある。
トロリーバスとは、
道路上に張られた架線から取った電気を動力として走るバスである。
外観も操縦法もバスに近い。
日本では長野県と富山県を結ぶ立山黒部アルペンルートに唯一存在する。
街路樹も公園も葉が落ちて竹箒を立てたような木ばかりが並んでいる。
著名な軍人のようだ。
サスキ庭園
ここからが「クラクフ郊外通り」
ユゼフ・ピウスツキ元帥
第二次ポーランド共和国の建国の父にして初代国家元首、国防相、首相。
ポーランド軍創立者にして元帥。
独裁的な政権で同国を盛り立てたことで知られている。
日本とは縁もゆかりもないポーランドの偉人のように思われるが、
実は元帥の親戚が日本にいる。
元帥の兄は文化人類学者で著名なアイヌ研究家のブロニスワフ・ピウスツキである。
ブロニスワは樺太南部にある集落・アイで
村長バフンケの従妹チュフサンマと結婚し、一男一女をもうける。
二人の子どもは第二次世界大戦後、北海道に移住した。
彼らの子孫が現在も日本で生活している。
北海道白老町にはブロニスワフの銅像もある。
では、
ユゼフ・ピウスツキ元帥自身はどこかで日本との接点はあったのだろうか?
元帥は、四国の松山市という地名を知っていたのではないかと思われる。
日露戦争勃発後の1904年7月、ユゼフ・ピウスツキ元帥は、
当時ロシアの支配下にあり帝政ロシアの一部として戦場で戦い
捕虜となったポーランド軍人(約4,600名)への待遇改善を求めた。
これに対して、日本政府は、松山市内で終戦までポーランド人捕虜を手厚く待遇した。
松山市は日本初の外国人捕虜収容所があったところである。
(参考:日本外務省ウェブサイト)
実は、松虎自身もユゼフ・ピウスツキ元帥と接点があった。
元帥は1923年、公職から引退するが、引退会見をしたのは、
松虎が今年の1月に宿泊した「ホテル ブリストル ワルシャワ」だった。参考
ユゼフ・ピウスツキ元帥
旧市街地に近くなると歩行者天国になる。
客引きの姉ちゃんからチラシをもらった。
なんと寿司店のチラシだった。
海外で日本関係のチラシをもらったのは初めてだ。
早速行ってみた。
寿司は小ぶりで,松虎にはおやつ程度の量でしかなかった。
寿司飯は外米のような感じでパサパサして芯がある。
いわゆるアメリカ寿司だった。
あちこちに教会は多い。
大聖堂
琥珀ブログ 平成23年3月20日 初製作

© 2015-2025 KOHAKU BLOG. ALL RIGHTS RESERVED.