Produced & Photographed by Matsutora
失われた画像
平成28年2月-5月
LOST PICTURES
Februray - May 2016
2月下旬にUSBの挿入時に接触不良をおこし、
パソコン内に保管していたすべてのデターが破壊した。
2月下旬から5月下旬までに撮影した1000枚以上もの画像も
数が多いので、パソコン内でテーマごとに分類して保管していたので、
これらの写真も一瞬にして壊れたが、それらの写真のうち何枚かは、
SNSの写真掲示板にアップロードしていたので、
それらの写真をダウンロードして集めたのが、この写真サイトである。
帰国までには、もう一度撮影に行きたいと思っているが、
大学の学校行事や復活祭などの時節物は撮ろうにも撮れない。
特に、我大学は横浜国立大学と協力校になっていて、
横浜国立大学の海外短期英語研修生(20名くらい)の受け入れ校になっている。
そのプログラムが実施された2月には、
日本人参加者の全てと聖トマス大学の担当教授(フリピン人)が
我授業を見学、参加してくれたこともあった。
その時には、いい写真をたくさん撮っていたのだが、
これらの写真が壊れてしまったのが一番残念である。
世界遺産サン・オウガスチン教会の回廊
障子戸のように見えるが、
紙ではなくてフリピン産の貝殻が枠の大きさに切ってはめ込まれている。
世界遺産サン・オウガスチン博物館に展示されている古伊万里と貝殻をはめ込んだ戸。
エドゥサ革命を記念した神社。
エドゥサ革命とは、
1986年2月22日の国軍改革派将校の決起から
25日のアキノ政権樹立に至るまでフィリピンで発生した革命のことである。
エドゥサとは
アギナルドキャンプ(反マルコス派のラモス将軍が立てこもったキャンプ)
に面している道路のことで、
ラモス将軍を守ろう100万人の市民がキャンプを取り囲んで、
政府軍の侵入を阻止した。
マニラ郊外にある「モンテンルパ」。
正式にはニュービリビット刑務所という。
渡辺はま子の『あゝモンテンルパの夜は更けて』の舞台である。
1952年(昭和27)1月、歌手の渡辺はま子は、
来日したフィリピンの国会議員ピオ・デュランから衝撃的な事実を知らされた。
同国モンテンルパのニュービリビット刑務所には、多数の元日本兵が収監されており、
すでに14人が処刑されたと聞きかされた。
戦後7年もたつのに、なお刑を受け続け、
なかには死刑を待つだけの人たちもいると聞いた彼女は、
銀座の鳩居堂からお香を同刑務所宛に送った。
1952年6月、当時鎌倉にあった渡辺はま子の自宅に一通の封書が届けられた。
その封書の中には、楽譜と短い手紙が入っており、
その楽譜の題名には「モンテンルパの歌」作詞代田銀太郎、作曲伊藤正康と書いてあった。
二人はフィリピンのマニラ郊外のモンテンルパの丘にあった
ニュービリビット刑務所で戦犯として死刑判決を受けていた人物であった。
作詞の代田銀太郎は元フィリピン憲兵隊少尉。作曲の伊藤正康は元陸軍将校。
「モンテンルパの歌」は、
刑務所で収容されていた日本人111名の望郷の念を込めた曲であった。
封書を受け取った渡辺は、
早速歌をビクターレコードに持ち込み、ほとんど修正無しで吹き込んだ。
題名には色を付けられ『ああモンテンルパの夜は更けて』と名付けられた。
『ああモンテンルパの夜は更けて』が大ヒットしていた1952年12月25日、
渡辺がニュービリビット刑務所を訪れた。
吹き込み以来刑務所慰問の決意を固めていた渡辺が、
国交が無いフィリピン政府に対し、戦犯慰問の渡航を嘆願し続けて半年後の事だった。
渡辺来訪時、作詞の代田銀太郎と作曲の伊藤正康は開演前に対面し、
歌を作ってもらった事に対し礼を述べた。
慰問のステージは、ドレス姿の渡辺が「蘇州夜曲」などの往年のヒット曲を歌い、
ステージ終盤に『ああモンテンルパの夜は更けて』は披露された。
この曲を聞いた100人近くの収容者は、死刑が執行された戦犯たちの事を想い、
またある者は望郷の想いを胸に、皆感極まって涙し、最後には全員で大合唱となった。
作詞者の代田も、作曲者の伊藤も涙を流していた。
その後、この歌のヒットや渡辺はま子をはじめ加賀尾秀忍ら関係者の努力が、
当時のフィリピン当局を動かし、
1953年(昭和28年)エルピディオ・キリノ大統領の特赦によって戦犯の帰国が計られた。
ニュービリビット刑務所近くにある日本人墓地。
死刑になった14名の遺骨を祭っている。
熱帯では桜が育たない。
桜と刻んだ石碑にブーゲンビリアを添えて
桜に見立てたようだ。
マリキナ靴博物館
マリキナ市(メトロマニラ)は市民の半数が何らかの形で
靴の製造にかかわるというフィリピン最大の靴の産地。
イメルダ夫人は好んでマリキナ製の靴を履いていたので、
イメルダ夫人がマリキナの靴産業を大きく育てたともいわれている。
写真の靴は、かつてマラカニアン宮殿に残された3000足の靴の一部であるが、
これらはイメルダ夫人から寄贈されたものらしい。
赴任中に公開された日本映画は、この呪怨と進撃の巨人の2作だけだった。
呪怨は日本語かと思ったら英語吹き替えだった。
これらの小旗は何だと思いますか?
実は、総選挙の立候補者のポスターである。
日本や諸外国のようにポスターを貼る場所が決められていない。
どこにでも貼れるのであるが、ルールはあるようだ。
会社や個人の家のように所有者がいるところにはまず貼っていない。
許可があれば貼れるが、あまり許可しないようだ。
もちろん公共の建物にも貼っていない。
公共の道路の何がしかに掛けるのが大半である。
フリピンの選挙は、文字通りの総選挙で、大統領から、県知事、市長、町長、
村長、国会議員、県会議員、町会議員、村会議員とすべての首長と議員を
同日の選挙日に投票する。投票日は公休日になる。大学は二日間休みになった。
ペディキャブ(自転車タクシーというところか)や、
ジプニー(フィリピンを代表する乗り物。ジープをバスにしたもの)にも
掲げられていることがある。
フリピンを代表する花『ブーゲンビリア』は、
赤、ピンク、白が一般的だが、紅白もある。
日本の紅白梅は接木であるが、
フィリピンのブーゲンビリアはどう見ても接木ではなく天然のようだ。
ボニファシオという都市がある。
メトロマニラの構成都市のひとつであるが、
将来はボニファシオがフィリピン経済の中心地になるようだ。
ここでも多数の写真を撮っていたが、次の3枚しか残っていない。
ボニファシオの中央公園道路は緑と歩道だけの道。
その道路はイベント会場にもよくなっている。
のどが渇いたところに「Free Water」の文字が、
「ありがたい!」早速、水をくれるようにたのんだところ、一瞬怪訝な顔した。
だが、すぐに笑顔で紙コップに水を入れてくれた。
飲みながら、いろいろ見ていると、どうも「Free Water」というブランド名のようだ。
聞けば確かにそうだった。(ワッハッハッハ)。
機転を働かせて自分たちの飲み水をくれたところがすばらしいですね。
あまりにも面白いので記念写真を撮っていたら、
次の写真は、その機転を働かせてくれた店員さんが撮ってくれた。
フィリピン人は明るくて友好的。
みんな松虎に向かって歓声を上げている。
その日も雄大な夕焼けが広がっていた。
琥珀ブログ 平成23年3月20日 初製作

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