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ベトナム独立戦争を戦った四国の男達

平成29年1月6日



海外赴任前にはいつも赴任国について研究している。すると、今までに知らなった事実を発見することが多い。なんとベトナム独立戦争(第一次インドシナ戦争)でベトナム人と一緒に戦った四国の男達が多数いたそうである。

まず簡単にベトナム近代史を頭の中で整理しておこう。ベトナムは、1887年から1945年までの68年間フランス領インドシナ連邦に組み込まれ、フランスの植民地となった。1939年にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発し、1940年6月22日にフランスが降伏すると、同年9月には降伏を受け入れたヴィシー・フランス側の承認の下に、日本軍がフランス領インドシナに進駐した。ベトナムはヴィシー・フランスと日本による二重支配体制が敷かれたのである。8月14日に日本が降伏を予告すると、9月2日には、ホー・チ・ミンがベトナム民主共和国の誕生を宣言したが、冷戦による分断世界の巷に巻き込まれた。先ず中英が進駐し、続いてフランスが進駐し傀儡政権を樹立、再度ベトナムを植民地化すると、これに対するベトナム独立戦争が始まった。フランスは次第に追いつめられ、1954年7月21日、ジュネーヴ協定の調印で決着した。この協定の調印によって、北緯17度線を境に両軍の兵力分離を図り全国統一選挙を実施することになったが、フランスの後を継いだアメリカがジュネーブ協定には参加せず協定の統一選挙実施をサボタージして傀儡政権維持を図ったことでベトナムは完全に南北に分断され、1965年2月7日、アメリカ軍による北爆によってベトナム戦争が始まった。ベトナム戦争の終わりは、1975年4月30日のサイゴン陥落によって、親米政権が崩壊した。

では、表題の「ベトナム独立戦争を戦った四国の男達」に話を戻そう。日本の敗戦後、陸軍少佐 石井卓雄(いしい たくお、1919年12月3日 - 1950年5月20日、広島県出身)はベトナム独立のために第55師団の780名を超える有志とともにベトナム独立戦争に参加した。石井少佐はグエン・ソン将軍の軍政顧問でありクァンガイ軍政学校教官でもあり、一緒に残留した780人以上の日本兵とともに、ベトナム軍を育成した。特にゲリラ戦術の伝授は、後にベトナム戦争でアメリカをも打ち破った原動力になったともいわれている。少佐は惜しくも、ベトナム独立戦争で戦没した。少佐と行動を共にした第55師団は、大日本帝国陸軍の師団の一つで、四国四県を徴兵区とする常設師団として、1940年善通寺で編成された。その中の一人に愛媛県人の中原光信(なかはら みつのぶ、1922年 - 2003年7月12日)がいた。中原は法政大学剣道部主将、陸軍少尉、情報担当将校で、石井少佐とともにクァンガイ陸軍中学教官であり、ベトナム独立戦争をも共に戦った。1954年ジュネーヴ協定が調印されフランスが撤退するのを見届けると、150名の日本兵とともに帰国、日越貿易会会長を長く務めた。一方ベトナムの地では、ベトナム独立戦争に参加して戦死した日本兵の中には烈士墓地に顕彰されている者もいるし、生き残って“ベトナム人”となりベトナムに骨を埋めたものもいるということだ。(著:松虎)



参考

元日本兵の貢献、ベトナムで認知の動き 「封印の歴史」報道:http://hogetest.exblog.jp/1046098/

石井卓雄 :https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E5%8D%93%E9%9B%84

第55師団 (日本軍) :https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC55%E5%B8%AB%E5%9B%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)  

中原光信 :https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E5%85%89%E4%BF%A1

他、ウェブサイト多数







 
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