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三国史記
平成30年2月3日
HISTORY OF THE THREE KINGDOMS IN KOREA
February 3, 2018










はじめに
 
三国史記とは、
高麗17代仁宗王の命を受けて金富軾(きんふしょく)らが作成した。
金富軾(1075年 - 1151年)は、高麗の官僚・儒学者。慶州金氏出身の 門閥貴族である。
三国史記は、紀元前57年から935年までの三国時代(新羅・高句麗・百済)から
統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書。
朝鮮半島に現存する最古の歴史書である。
原文は一部の歌の朝鮮語を漢字で書いているが、ほぼ全部が漢文で書かれている。
1143年執筆開始、1145年完成、全50巻。
高麗は、918年から1392年まで続いた王国である。
三国史記は、高麗王朝によって公式に編纂された正史である。
日本でいえば、古事記や日本書紀に相当する。
だが、韓国政府や学会はこの本が「信用できない」とレッテル貼りをしている節がある。
三国史記の中の新羅本記を読んでみると、
古代の朝鮮半島には多くの日本人や中国人が住んでいたことが描かれているし、
王族に日本人がいて王や大輔(首相のようなナンバー2)にまでになっている。
新羅が倭国ではないにしても、和種の国のように思えてくる。
しかし、これらは「日本に文化を伝えた朝鮮」としたい国家や国民にとって甚だ不都合なようだ。
日本では、続日本紀に桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると記されているし、
天皇陛下もこのことにご言及され,韓国とのゆかりを感じていると仰せられている。
日本と朝鮮半島は近くとも国民性は大きくかけ離れているようだ。

三国史記「新羅本記」  

第一代国王(初代王)
姓は朴、名は赫居世(かくきょせい)、王号は居西干(きょせいかん) 
これ以前、朝鮮(当時は楽浪郡を指していた。楽浪郡は現在の平壌あたり)
からの移住者が六村を作っていた。これを辰韓(後の新羅)の六部という。
その六部の一人の村長が、林の中で馬がひざまずくようにして嘶いていたので、
そこへ行ってみると、突然馬が消え、大きな卵があった。
その卵から出てきた幼児を育てると、優秀で老成した少年に育った。
誕生も神秘的だったので、君主に擁立し、前57年に13歳で即位させた。
当時の朝鮮語では、瓢箪のことを朴といったが、その卵が瓢箪の形をしていたので、姓を朴とした。
現在の朝鮮半島の全ての朴姓は名目的には新羅の初代王に行き着くとされている。
朴が王になって四年後、閼英井(あつえいせい)という所に現れた龍の右側から幼女が生まれた。
近所の夫人がこれを神異に感じて、育て上げて井戸の名にちなんで閼英(あつえい)と名づけた。
彼女は成長して人徳を備え、容姿も優れていたので、赫居世は彼女を王妃に迎え入れた。
人々は赫居世と閼英夫人を二聖と称した。

前20年、瓢公(ここう)を派遣し馬韓(百済)を訪問させた。
馬韓王が、瓢公をなじって次のようにいった。
辰韓(新羅)と卞韓(弁韓)は我が属国である。近年貢物を持ってこない。
大国に使える礼儀としてそのようなことでよかろうか。
瓢公はこれに答えて、わが国は建国以来人心が安定しており、豊作が続き倉庫は米で満ち溢れ、
民が互いに敬い譲るので辰韓の遺民から弁韓、楽浪、倭人に至るまで恐れ従わないものはいない。
でも我王は謙虚に振舞っている。
私のような下臣を遣わし貴国とよしみを交わそうとするのは過ぎたる礼ではあるまいかといった。
そこで大王は激しく怒り瓢公を殺そうとしたが、家臣に止められて、帰国することができた。
瓢公はその出身の氏族名を明らかにしていないが、 
彼はもともと倭人で、 むかし 瓢箪を腰にさげ海を渡って朝鮮半島に来た。
それで瓢公と称したとある。瓢公の官職名は明記されてはいないが、
大輔(首相のようなナンバー2)だと思われる。
また、推測の域ではあるが、初代王は神懸かって現実味に乏しく、姓が瓢箪の意味でもあるので、
瓢箪がトレードマークの瓢公自身が初代王ではなかったのかと考える説もある。
もしそうだとすれば、朴姓の朝鮮人は日本人がルーツということになる。

第二代国王
国王名は南解次次郎、初代王の長男、朴姓。
この時代にも重要な人物が登場する。脱解(だっかい)である。
脱解はむかし多婆那国(たばなこく)で生まれた。その国は倭国の東北一千里のところにある。
むかしその国王が女国(不明)の王女を娶った。王女は妊娠して7年たって、大卵を産んだ。
これを不吉に思った王は子供を捨てさせた。卵を絹の布で包んで箱に入れ、海に流した。
その箱は朝鮮半島の海岸についた。
それを見つけた老婆が育て上げるが、風格も知識も人々に抜きんでていた。
箱を見つけたときに、鵲(かささぎ)が飛んできたので、鵲の字の左半分を取って、昔(せき)とした。
脱解は瓢公の宅を望み見て、そこを吉兆の地と考え、騙してその土地を取り上げて、そこに住んだ。
のちにその地は、新羅王朝の歴代の王宮が建てられた。 
脱解が賢者であると知った第二代国王は娘を妻にさせた。
つまり日本人が国王の娘婿になったのである。 
 
第三代国王
第二代国王の息子、姓は朴。
第二代国王の娘婿である倭人の脱解が大輔(首相のようなナンバー2)になっている。
脱解は、第三国王となる義兄弟を擁立し王位につけたと記されている。
脱解は大輔だけではなくキングメーカーでもあった。

第四代国王
第二代国王の娘婿の脱解。姓は昔(せき)。
瓢公が大輔(首相のようなナンバー2)になる。
倭人の脱解王と瓠公の倭人コンビが辰韓を国へと発展させる。
倭国とも国交を結び、お互いに使者を交換した。
脱解王は、ある夜、金城西方の始林のなかで、鶏の鳴き声を聞いた。
夜明けになって、瓢公にそこを調べさせたところ、
金色の小箱が木の枝にかかっていて、その下で白鶏が鳴いていた。
瓢公は城に帰って、王に報告した。王は役人にその箱を取ってこさせ、これを開かせた。
その箱の中には姿や容貌が優れて立派な幼児が出てきた。
王はたいそう喜んで、「天が私に後継ぎとして下されたのに違いない」といって、手元に置いて養育した。
新羅始祖の赫居世の故事とよく似ていたので、
小さな子を表す「閼智」を名前とし、金の箱から出てきたので姓を金とした。
のちに、7世孫に第13代王味鄒尼師今が出て新羅王として即位し、
以後金氏の王統が占めることとなり、始祖として敬われた。

第五代国王〜第七代国王(略)

第八代国王
第七代国王の長男、姓は朴、王妃は朴。
173年、倭の卑弥呼が使者を送って来訪させた。
ただし、『三国志』東夷伝倭人条によれば237年に倭が帯方郡に使者を派遣したとある。

第九代国王〜第五十六代国王(略)

終わりに

その後、辰韓は新羅と国号をかえて56代まで続くが、
王家は朴家、昔家、金家の三家のみである。
また王妃もこの三家から選ばれている。
朴家は朴が瓢箪を意味することから、倭人だったという説もあるが、
出現が神がかりなので詳細は不明である。
昔家は倭人だと明記されている。
金家は、倭人王と倭人大輔の倭人コンビが発見し連れてきた一族で、
始祖の閼智は倭人王の養子である。
また代々の新羅王宮は倭人大輔(瓢公)の屋敷跡でもある。
「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫である」ということから、
朝鮮半島側では、皇室は韓国系と主張しているが、
実態は真逆で、朝鮮半島における倭は、そのような微塵なレベルではなく、
倭国とは言わないまでも和種と言えるレベルの王朝が成立していた。
もちろん倭寇の侵入も度々あったようだが、
時は戦国時代、倭寇だけでなく百済や高句麗などの隣国との小競り合いは頻繁にあったようだ。
これらのことは全て朝鮮王朝の歴史書(正史)に書かれている。
日本人は三国志や魏志倭人伝など中国の古典はありがたがって関心が高いが、
朝鮮半島の古典にはほとんど関心もなく知られてもいない。
今後は、是非目を向けていただきたいと思っている。
公正で有意義な日韓・日朝関係においても必要なことである。
また、ここに掲載した三国史記は新羅編の最初のほんの一部にすぎない。
この後は、是非皆さんに読んでいただきたいとも思っている。



筆者:松虎





 


 
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