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ベトナム軍事歴史博物館
平成30年9月29日
VIETNAM MILITARY HISTORY MUSEUM
September 29, 2018
中国、フランス、アメリカと戦争をした激動の歴史を持つベトナム。
この博物館では、ベトナム人が古代から現在まで戦ってきた歴史を展示している。
国旗掲揚塔、敵軍の爆撃機、武器、写真などを通してその歴史が展示してある。
また、広い中庭には損傷した軍用機や軍用車両がずらりと展示されている。
ソ連製ミグ21戦闘機

この戦闘機は、アメリカ軍の戦闘機を14機撃墜したことで知られている。

ディエンビエンフー攻略戦(1954年3月13日〜5月7日、第一次インドシナ戦争)で
使用されたフランス製105mm榴弾砲(りゅうだんぽう)。
この榴弾砲は、1952年、ベトナム北西部のギアロの戦いで、
ベトナム軍がフランス軍から奪取した。

1975年バンメトート戦(ベトナム戦争)で大活躍をしたT54B型戦車

《館内》
ゴー・クエン(Ngo Quyen、呉権)
〜中国から独立を勝ち取った名将〜
約一千年におよぶ中国支配から北部ベトナムの独立を達成したゴー・クエンは、
歴史的な重さから見ても、戦いぶりのかっこよさからいっても
ベトナムのヒーローの中のヒーローの一人ではないかと思われる。
ゴー・クエンは898年、ハノイ郊外のドウォンラム(Duong Lam、唐林)村で生まれた。
ゴー・クエンは各地の豪族をまとめ、
「打倒矯氏・南漢」の旗を掲げた。南漢は唐が滅びた後、
五代十国時代に広東地方に建国した国で、日本では平安時代の中頃に当たる。
939年、南漢軍は海路ベトナムに攻めてくると、
有名なバックダンザン(Bach Dang Giang、白藤江)の戦いが始まった。
バックダンザンはハイフォンのやや北側に注いでいる流れの速い河で、
過去になんども戦場になった河である。
ゴー・クエンは干潮のとき、リム(鉄木)と言われる固い木を川床に何本も埋め込み、
潮が満ちて南漢軍が河口から上ってくると、
ゴー・クエン軍は逃げると見せかけて上流に誘い込み、
潮が引いてきたとき一気に鉄木を埋めた所へ追い立て、
南漢軍の船の多くにダメージを与えたのである。
大軍でしかも装備の整った大船団と戦うとき、どうしたら勝利を勝ち取れるのか、
ゴー・クエンが練りに練った秘策だった。
ゴー・クエンの大勝利は350年の後、
蒙古軍(元)がベトナムに攻めて来た時の手本となり、
チャン・フン・ダオによって、蒙古軍は南漢軍と同じように
鉄木に船をやられベトナムに勝利をもたらすことになった。
ゴー・クエンは中国から独立を勝ち取った後、
自ら王となりコーロア(Co Loa)に都を定めるが、
僅か6年の在位(939〜944)、47歳で没した。
現在、ハノイ市内にゴークエン通りが残されている。
メトロポールホテル、国家銀行、迎賓館、労働省、商業省、インドネシア大使館等々、
いくつもの堂々としたフランス風の建物が並んでいる。

鉄木も描かれている。


実物の鉄木

リー・トゥォン・キエット(Ly Tuong Kiet、李常傑)
〜ベトナム至上初めての先制攻撃〜
リー・トゥォン・キエットは、幼い頃から武道に秀で、
戦陣図を見て戦略を練るのが好きだったようだ。
20歳で宦官となり、後宮内で働くことになり、
李朝第三代皇帝リー・タイントン(李聖宗)が即位してからは
朝廷に入り王の側近として働いた。
1069年に聖宗がチャンパへ向かった時にも、
彼は先鋒将軍に指名され大きな功労をあげている。
その功労を称え王は彼に李姓を下賜し、
それから李常傑と呼ばれるようになった。
中国は宋の神宗帝の時代。
1075年、宋の神宗は王安石の進言を聞き入れてベトナムの再征服を企てた。
しかし、その陰謀を事前に察知した李常傑は、
ベトナムの歴史上初めて中国からの攻撃を待つのではなく、先制攻撃を仕掛けたのである。
出兵に当たり、彼は軍を二つに分けた。
第一軍は陸路を使って中国の障刻B(南寧)にまっすぐ向かった。
第二軍は、海路を使って欽州、廉州(広東)に上陸した。
これは向かうところ敵なしの勢いで勝利を収めていった。
彼の軍は障刻B城を包囲し、数日後これを陥れた。
宋軍は十余万の死傷者を出し、李常傑軍は大勝利をおさめた。
この結果を見て、彼は自軍を国へ戻し宋軍の新たな攻撃に備えた。
宋は翌年、大軍を引き連れてベトナムへ押し寄せた。
彼は如月江(今のカウ河)に防戦を張り、如月河のほとりで、激烈な戦いが繰り広げらた。
川を渡る術のない宋軍は陣営を置いて援軍を待った。
その夜半、李常傑は有名な詩“南国山河”を詠じ、兵士達の士気を高めたといわれている。
南国山河南帝居
截然定分在天書
如何逆虜来侵犯
汝等行看取敗虚
南国(ベトナム)の山河は、南帝(ベトナム)の王の住むところ。
はっきりと定め分けると天の書にもある。
それをどうして逆虜(宋軍)がやって来て侵犯することが出来ようか。
おまえたちは、行って敗北の憂き目を見るがいい。
ついに決戦の時がやってきました。
彼は河を越え敵陣を攻撃して壊滅的な打撃を与えた。
宋軍は如月河で大敗を喫し、退いて西軍、富良江(今の紅河)に向かったが、
ベトナム軍の抵抗にあい、川を渡ることができず兵を還し、ベトナムの独立は守られた。
リー・トゥォンキエット通りは、
ハノイ市中心部、レー・タイントン通りからレー・ズアン通りにかけて東西に伸びている。
またリー・トゥオン・キエットは、ハノイ市内では、ナムドン亭に祀られている。

チャン・フン・ダオ(Chan hung Dao、陳興道)
〜元寇から国を守った英雄〜
チャン・フン・ダオは13世紀、
モンゴル軍(元)の侵略を撃退したベトナムの英雄である。
ハイズゥォン省のトゥォン川の近くに、彼の邸宅があったが、
現在、その場所はデンキェップバック神社となり、チャン・フン・ダオが祀られている。
彼の邸宅があったヴァンキェップ(万劫)地域の「万劫」には、
多くの困難な事という意味がある。
つまり、ここはドゥオン川、カウ川、トゥォン川、
ルックナム川、キンタイ川、タイビン川の6つの川の合流地点で、
ここを押さえれば水上から四方へ行くことが出来るため、昔から交通、軍事の要所だった。
チャン・フン・ダオはここに造船所などの軍事基地を築き、外敵の侵入に備えた。
13世紀後半、モンゴル軍(元)が攻めてくると、
兵法に傑出した才能を持つチャン・フン・ダオ将軍が総指揮官となり抗戦した。
彼は三度もモンゴル軍(元)の侵攻を退けたが、
最も有名な勝利がバックダンザン(白藤江)の戦いである。
バックダンザンは、ハイフォン市の北側にある入り江。
モンゴル軍の第三回目のベトナム侵攻(1287〜1288)の際、戦況が不利となった元軍は、
軍事拠点があったヴァンキェップからバックダンザンを通って海路脱出をはかろうとした。
そのときチャン・フン・ダオは、汐の干満を利用した戦法で元軍を迎え撃った。
その戦法とは、バックダンザンの支流のチャイン川で、
干潮時に予めリム(鉄木)の杭を川底に打ちこみ、草をかけてわからないようにし、
満潮をみはからって敵をおびき出し、
敵船が杭で動けなくなったところを小型の船で攻めるという方法だった。
ここは昔から中国から紅河デルタの中心に入る主な水路の一つで、
この戦法はゴー・クエンにならったものだった。
モンゴル軍(元)は大敗し、ベトナム征服は失敗に終わった。
ハイズゥォン省のトゥォン川の近くにデンキェップバック(劫泊祠)神社がある。
この神社は、チャン・フン・ダオを祀っている。
彼は、救国の神として人々の信仰の対象になっている。
彼が残した檄は、後の抗仏戦争やベトナム戦争の際にも人々を奮い立たせている。
彼の命日の旧暦8月20日頃には、盛大な祭りが催され、
ベトナムでは彼を国父と慕い、「8月は父の命日」といわれている。

クアンチュン(Quang Trung、光中)
〜ベトナムのナポレオン〜
クアンチュン(光中)は、1778年から1802年の間に存在した、
西山朝(せいざんちょう、タイソン朝)のタイソン(西山)三兄弟のうちの三男で、
1788年に自ら皇帝を名乗り、クアンチュン(光中)帝という名で呼ばれている。
ベトナムのナポレオンとたとえられるほどの戦上手で、
シャム、清と次々にベトナムに攻め入る外敵を徹底的に叩きのめした。
語り伝えられているところによると、声は割れ鐘のように大きく、
眼光鋭く英知に長け、腕力にもすぐれていて
100キロの米俵を担ぐことができるほどだった、ということだ。
戦略にすぐれ、軍律は厳しく、常に第一線に立って戦い、
全軍の兵士たちは感激したと伝えられている。
17〜18世紀のベトナムは、後レー(黎)朝の末期でレー帝に実権はほとんどなく、
ハノイを中心とする北部のチン(鄭)氏と
フエ、ホイアンを中心とする中南部の広南グエン(阮)氏が支配し、
およそ200年にわたって両氏の対立が続いていた。
官僚達は政治を顧みず私利私欲に走り、
農村は飢饉で荒廃し、農民、民衆はその危機的状況に苦しんでいた。
1771年、ベトナム中部のタイソン地区(現ビンディン省西部のタイソン県)で
グエン・フエらグエン氏三兄弟が広南グエン氏を倒そうと蜂起した。
これが「タイソンの蜂起」と呼ばれている。
タイソンの反乱は周囲の諸民族が次々と参加し、その勢力を拡大していった。
1777年にグエン氏三兄弟は、南部に逃亡した広南グエン氏を追いつめ、
ジャディン(現在のホーチミン市)を制圧。
広南グエン氏がシャムとフランスに軍事援助を要請したため、
1784年にシャム軍はメコンデルタに侵攻し、
広南グエン氏軍とシャム軍の連合軍対タイソン軍との
「ラックガム・ソアイムットの決戦」が始まった。
この戦いでグエン・フエは連合軍を撃破し、歴史的な大勝利を収めた。
その後1786年には、グエン氏三兄弟は現在のフエを占領し、
チン氏勢力を北に押し戻し、タンロン(現在のハノイ)を占領した。
三兄弟のうち長男は自ら皇帝を名乗り中部に居を構え、
三男のグエン・フエにはベトナム北部、次男にはベトナム南部を支配させました。
当時、名目上の存在であったレー朝のレー・チエウ・トン帝が
グエン三兄弟の支配を嫌い、清に援軍を要請。
1788年10月、清軍は20万人の兵力を動員してベトナムに侵攻しタンロン城に入城。
これを知ったグエン・フエはレー帝を激しく非難し、
自ら皇帝クアンチュンを名乗り10万人の兵力で北へ進撃した。
12月26日、紅河デルタのニンビンで
「10日以内に清を全滅させる。タンロンで春節を祝おうではないか。」と
檄を飛ばして軍を鼓舞させると、瞬く間に清軍を壊滅しました。
清軍の堡塁があったドンダーをめぐる戦いがもっとも激しかった。
この「ドンダーの戦い」に勝利したタイソン軍は、
1789年陰暦1月5日にタンロン城に入りました。
クアンチュンが檄を飛ばしたとおりに、1月7日にタイソン軍は勝利を祝った。
しかし、1792年9月16日、クアンチュンは突然白血病でこの世を去った。
在位わずか4年、39歳という若さだった。
彼の治世は短かったが、その功績は大きく、経済、社会、文化の多方面にわたっている。
長年の南北紛争により疲弊した農村を立て直して農業生産をもとにもどし、
手工業、交易を奨励して商業の発展にも努めた。
また、文化面では「チューノム(字喃)」の公用文への採用が重要な改革として有名である。
クアンチュンの巨大な像が、ハノイ市タイソン通りのドンダー公園にあり、
またボック寺には、クアンチュンの像が祀られている。

1975年4月30日、南ベトナム政府大統領官邸に突入した。
ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)のT54B型戦車。
国宝に指定されている。

フランス植民地時代に見張り台として建てられた国旗掲揚塔

国旗掲揚塔の足元には大砲が展示されている。

日本製の奉天工場や大阪工場で作られたものもある。


大阪で作られた大砲

インドシナ戦争やベトナム戦争で撃墜した航空機などの残骸

琥珀ブログ 平成23年3月20日 初製作

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