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ファンボイチャウ記念碑

令和2年1月21日
PHAN BOI CHAU MONUMRNT
January 21, 2020




ベトナム独立の父“ホーチミン”は広く知られているが、
もうひとりの民族運動の指導者と言われているファンボイチャウ
1867年ゲアン省出身)の名前はあまり知られていない。
ホーチミンがフランスから革命運動を起こしたのに反して、
それ以前のファンボイチャウは日本滞在後、中国から革命運動を起こした英雄である。
フランス軍に捕えられ(1925年)終身刑となったが減刑されて、
軟禁中に1940年フエで亡くなった。享年75歳であった。
フエにはその日本ベトナム双方の記念碑がある。
ファンボイチャウは今から100年以上も前に来日し、
当初は日本政府に武器調達等の要請であったが、
犬養、大隈の提案によりベトナム独立運動を目覚めさせるために
多くの若いベトナム人学生を日本に留学させる
(東遊運動、1905年~09年延べ100以上)ように指示され運動が始まった。
フランスの圧力で4年間で頓挫し逃げ場を失った留学生を
日本であらゆる面で援助したのが静岡県袋井市の浅羽左喜太郎氏で
現在でも浅羽ベトナム会という組織が袋井市にあり日本とベトナムの交流がある。
ファンボイチャウは浅羽氏が亡くなったということを聞いて、
1910年に袋井市常林寺に記念碑を建てた。
その後、フエ市と静岡県、袋井市とは友好関係が続いている。
参考文献:日本をめざしたベトナムの英雄と皇子(白石昌也著、彩流社)






チューンティエン橋の袂、ホテル・サイゴン・モリンの前の緑地


ファンボイチャウ記念碑




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《ファンボイチャウとホーチミンとの不思議な出会い》

ファンは60歳、孫文の中華民国建国に刺激を受け
中国広東を根拠地に維新会を解散し越南光復会を作り、独立活動を続けていたが、
広東に通訳として同行してきた34歳のホーチミンと再会している。
ホーの父とファンは同じ郷土、ゲアン県の出身の親友だったといわれており、
ファンが日本に遊学(東遊運動)に出かける際、15歳だったホーを日本に誘っている。
ベトナム共産党は当初、ファンボイチャウを独立の父、革命指導者として認めていなかった。
ファンが共産党員ではなく、日本に援助を求め、王位継続を前提とした改革だったからだ。
だがドイモイ政策の進展によって革命家の範囲が広がり評価されることになった。
ファンボイチャと同時期に革命家であったファン・チュ・チン(クアンナム出身)は
フランスと真向から対立するのではなく、
近代化をすすめるという考え方は当初評価されなかったが
共産主義低迷にともない評価もあがってきたと言われる。





 



 
 
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