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ホイアン
令和2年5月1日
HOI AN
May 1, 2020



ベトナム中部クアンナム省の都市であり、ダナン市の南方30キロ、
トゥボン川の河口に位置する古い港町である。
人口は約120,000人。中国人街を中心に古い建築が残り、
「ホイアンの古い町並み」としてユネスコの世界文化遺産に登録されている。





ホイアン市街


ホアンゼィエウ橋


橋からトゥボン川の河口に位置する旧ホイアン港と町並みが写真右奥に見える。


旧ホイアン港
中世時代、朱印船貿易で大阪堺港を出港した船舶はこの港に到着した。
当時1000人くらいの日本人が住んでした。




現在は観光船の船着き場になっている。


橋の欄干上の飾りに市章が見える。市章は来遠橋(愛称日本橋)である。








大きいサイズ(CLIK)




来遠橋(らいえんばし)、日本橋という愛称もある。
ホイアン旧市街にある石橋で、幅3m、長さ18mの瓦屋根付きの太鼓橋で、
1593年に日本人が橋を架け、当時の日本人町と中華街を結んでいたとされる。
橋の名前は、1719年に広南国王の阮福淍が
論語の「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」から名付けたとされる。
申年に建築が始まり戌年に終わったことから、橋の両端には申と戌の木像がある。
橋の中に祠が設けられている。
この橋はホイアン市章になっており、世界遺産ホイアンのランドマークにもなっている。


通路側から見た橋


橋に付随する祠の建物(右)がくっついている。




橋に付随している祠
















































路上マーケット


熱帯の果物。日本ではないものばかりですね。




日本橋は中国風に作り変えられ、
日本家屋も全く残っていないが、墓がいくつか残されている。




1647年、日本の貿易商人谷弥次郎兵衛(たにやじろべえ)ここに眠る。
言い伝えによれば、
彼は江戸幕府の外国貿易禁止令に従って日本へ帰国する事になったが、
彼はホイアンの恋人に会いたくてホイアンに戻ろうとして倒れた。
この彼の墓は母国の方向、北東10度を向いている。
この遺跡は17世紀にホイアンが商業港として繁栄していた当時、
日本の貿易商人と当地の市民との関係が大変友好的であった事の証しである。


ホイアン名物「カオラウ」


上部は麺が見えないが、具の下にうどんのような麺がある。


日本人町で日本人が作っていた讃岐うどんが起源だそうだ。
ベトナム麺類は米粉から作るので、全くこしがないが、カオラウはうどんのようにこしがある。
またベトナム中部の麺は、ミークアンでも、バインカインもこしがあって美味しい。
特にバインカインはうどんそっくりである。「カオラウ」の影響のようだ。


ペット用の鳥屋さん
ベトナムはベトナムを丸ごと隔離する社会隔離を4月1日から3週間実施し、
現時点ではハノイ首都圏は都市ブロックされているが、
そのほかの地域は規制が順次緩やかになてきている。
鳥屋さんが復活しているのにはびっくりした。
ホイアンは元々感染者が全く出ていない地域ではある。














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