
Produced & Photographed by Matsutora
ハイさんの葬儀
令和3年1月27日
HAI'S FUNERAL
January 27, 2021
ハイさんは私の専属運転手だった。
往復の送り迎えや出張授業などのときはいつも連れて行ってくれた。
あるとき、「北国の春」をハミングしていたので、
送り迎えの車の中で日本語で歌えるように練習した。
1カ月ほどかかったかもしれないが、
大変上手に歌えるようになった。
間違った発音は一つもなく、
日本人が歌っているようにさえ聞こえる。
その後、ハイさんの希望で「北空港」を練習した。
これも1番から3番まで日本人のように歌えるようになった。
その他、ハイさんの希望する日本語会話も教えていた。
2021年のテトは2月12日、通常その1週間前くらいから忘年会がある。
「先生、今年の忘年会は3区のレストランです。カラオケもあります」
といった笑顔が嬉しそうだった。
忘年会が日本語で歌う初舞台になるはずだった。
1月25日昼頃、ハイさんと突然連絡が取れなくなった。
家族も学校も連絡が取れなくなった。
翌日、ホーチミン市から遠く離れた町のホテルの一室で死んでいるのが発見された。
何でそんな町に行ったのか誰も心当たりはなかった。
個人的な何かで行ったのだろうということになった。
そして心筋梗塞が起こり、休むためにホテルに駆け込んで、そのまま亡くなったようだ。
乗っていた車から身元が分かり、家族が引き取りに行ったということであった。
葬儀はゴムの木の林で囲まれた小さな町の実家で行われた。


旗が立っているのがハイさんの実家の前


高校生の息子たちが、半透明のナイロン製のような遺族の衣装を着ている。

遺影は間違いなくハイさんだった。
ハイさんは5人の子宝に恵まれていたようだ。


右側の人が奥さん。


弔問客に飲み物やスナック菓子が出される。

電話に出る奥さん
この後、私たちのテーブルに来て、事情を説明していた。
始終淋しそうな悲しそうな様子だったが、突然笑みを見せて話し始めた。
「日本人の先生に教えてもらって日本語で日本の歌が歌えるようになったんだといって、
私も前で歌ってくれたんですよ」と本当に嬉しそうに語った。
「私がみんなにそのことを言ったので、みんなが聞きたい聞きたいといっていたんですよ」
「ハイさんの日本語は間違いが一つありませんでした。
日本人と同じに歌えました」と私は伝えました。
奥さんはそれを知っていたかのようにうなずきました。


忘年会はなくなった。
学校の誰もが、忘年会の費用(全額学校支払い)は
ハイさんの遺族に寄贈したいとい気持ちからだった。

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