平成23年11月3日





11月1日(火)から9日(水)まで台湾へ2回目の研修に行ってきました。


研修編


台北市の郊外にリゾート地のような雰囲気の淡水がある。

  
ここに台湾総合研究院がある。

  

  
許世楷氏(元駐日大使、津田塾大学名誉教授)

  

  

  
黄昭堂氏(台湾独立党主席、元総統府国策顧問)

  

  
黄天麟氏(元第一銀行頭取、元総統府国策顧問)

  

  
李雪峰氏(台湾高座会総会長、李登輝民主協会所常務理事)

  

  
羅福全氏(元駐日大使、元亜東関係協会会長、国連大学名誉教授)

  

  

  
蔡焜燦氏(実業家、作家、老台北という愛称がある)

  

  

  

日台交流協会総会

  
涂醒哲(国会議員)

  

  
黄敏恵(嘉義市長)

  

  
江義雄(国会議員)

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  

  
お土産もらいました!

  
何と市長さんからでした。
  


研究視察編


富安宮

 嘉義県東石郷副瀬村57号に「富安宮」という廟(道教寺院)があります。
建物はごく普通の廟ですが、
お祭りされている神々の中に大変珍しい神がいます。
その神は「義愛公」と呼ばれています。
「義愛公」は元々は人間だったということですが、
これはさほど珍しいことではありません。
日本でも菅原道真が神になっています。
東照宮では徳川家康が神として祭られています。
驚くべきことは「義愛公」が日本人だったということです。

 神になる前の義愛公は森川清二郎という名前でした。
100年ほど前に台湾で巡査をしていた方です。
後に「義愛公」と名付けられて神として祭られました。
義愛公は台湾南部の現在「富安宮」があるところの派出所に勤務しました。
当時37歳でした。
義愛公は村人思いで一生懸命任務に当たりました。
あるとき、
村人の一人が海に牡蠣を捕りに入り、
貝ガラで足を切ってしまいましたが、
それを見た義愛公は海に入り、
その人を背負って自宅まで送り届けました。
義愛公自身も海に入ったときケガをしましたが、黙っていたそうです。
後にこれを聞いた村人たちは感激したということです。

 また、義愛公は当時正規の学校がなかったため派出所の隣に寺子屋設け、
そこで村人たちに読み書きを教えていたようです。
そのため村人たちからは「大人(ダイジン)」と呼ばれていたようです。

 ある年、台湾総督府により漁業税が新たに制定されました。
森川のいた村はもともと貧しく、新たな税金が課せられると生活ができなくなります。
村人たちは義愛公に税金の軽減を嘆願します。
村人思いの義愛公は、その意を上司に伝えるべく台南州東石支庁を訪ね、
税金の軽減を申し入れました。
しかし、当時の支庁長は義愛公の願いを聞き入れないばかりか、
義愛公が村人を煽動していると誤解し、義愛公を懲戒免職にしてしまいます。

 義愛公は銃で自殺しました。
1902年4月7日、妻子を残して42歳という若さでの死でした。
村人たちはたいそう悲しんだそうです。
それから20年余りたった1923年、義愛公のいた副瀬村周辺では、
これらなどの伝染病が流行しました。
ある晩副瀬村の村長が寝ていると、枕元に制服姿の警察官が立ち、
伝染病を防ぐ為の手だてを村長に告げたと言います。
村長はその警察官こそ義愛公(森川)に違いないと村人に伝え、
村は伝染病の脅威からまぬがれたそうです。
村人たちは義愛公のご神体を創って富安宮という廟に鎮座させたということです。

 ところで漁業税はどうなったのでしょうか。
義愛公(森川)の死後に台湾総督府はあの漁業税は計算違いであった
ということで課税されなかったそうです。

富安宮は海岸近くにあって、今でも牡蠣の産地です。

  
富安宮です。現在新しい廟を建設中なのでこれは仮の廟です。

  

  

  

  
道教は日本の神道のように多神教ですから、
一つの廟のなかで多くの神々が祭られています。

  
こちらが義愛公です。
道教寺院では同じ神様が
複数並べられていることがあります。
ご神体はお葬式や結婚式などの祭礼でも使用されます。
つまり複数あるのは片方が貸し出し用のご神体というjことです。

  
私たち日本人参拝者のために衣装をとって披露していただきました。

  

  

  

  

  

  

  

  

  
創建当時の富安宮です。

  
現在新廟が建てられています。
完成したら一度行きたいですね

  

鎮安堂飛虎将軍廟


  
台南市に「鎮安堂飛虎将軍廟」というのがあります。
小さな廟ですが、ここに奉られているのは、
大東亜戦争中に台南上空の空中戦で壮烈な戦死を遂げた
日本海軍の杉浦茂峰少尉です。

  
“飛虎将軍”というのは神になった杉浦茂峰少尉の神名です。
昭和19年10月12日、大東亜戦争も末期に近く、
米軍は台湾各地に航空決戦を挑んできました。
午前7時19分、米軍機台南来襲、日本零戦は上昇し空中戦、
零戦は勇敢に戦いましたが、 数を頼む米軍機には勝てず、
一機又一機と撃墜されていきました。
そのうちの一機は尾翼より発 火し、
海尾(地名)の大集落へ向かって落下していきました。
そのまま落下したら、海尾の町は大惨事になったでしょう。
そのとき、その零戦は機首を上げて上昇すると
町はずれまで飛んで人家のない畑で飛び散りました。
飛行士は落下傘で飛び降りましたが、
米軍グラマン機の機銃掃射を浴びて、
落下傘は破れて、飛行士は地面に激突しました。
その操縦士がとっさの機転で密集地を避けて、
人家のない畑に墜落したことは
誰の目にもはっきりと見て取れたそうです。
しかし、そのために自分の身体を米軍グラマン機の目の前に
さらすことになりました。

  その後、町の有力者達が集まり、
身を挺して海尾の町を戦火から救った飛行士の為に、
永久にその恩徳を顕彰する事を衆議一致で決議した。
そして昭和46年に廟を建設して毎日お参りをした。
そうしたら、稲作は豊作、豚や魚の養殖も順調で、
宝くじまで当たる者も出てきたそうです。
廟は海尾集落の守り神として集落の人々の尊敬を集めています。
毎日遠近からの参拝者が多いと聞いています。

  
道教寺院(廟)は多神教ですから、
多くの神々が一緒に奉られているのが普通ですが、
この道教寺院はこの飛虎将軍だけが祭られています。
ところで、将軍というのは、神の中でも勇敢な神につける贈り名です。

  

  

  

  

  

  

  

  


観光編


阿里山


  

  

  

  
玉山から登る朝日
玉山というのはかつて新高山といわれていた山で、
台湾一標高が高く富士山よりも高いです。

  

  

  
これは何か分かりますか?木トマトです。(^_^)v

  

  

  

  

  






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